<あらすじ>
前回の記事を「続く」と締めたが、あれはウソだった。
ひどく心地のいい目覚めであった。
目を開いた彼は、俺は夢を見ているのだと確信した。誰しもが経験する、夢を見ている自覚のある夢、その類であろうと。
無闇に広い部屋に程よい間隔で並べられた、美麗な調度品の数々。それらは窓から差し込む優しい光、天然のものとも人工のものともつかぬそれを反射し、燐光のごとき眩さを見せていた。
そんな豪奢な部屋の奥で彼は、浮遊しているかと思えるような弾力のある椅子に腰を沈めている。その周囲に半裸の女たち、いずれも劣らぬ美女が幾人も彼に寄り添い、かしずいていた。
彼は、絵に描いたような王様であった。こんなことは夢以外ではありえぬ。
ずいぶんわかりやすい欲望の顕れであることよと、内心苦笑しつつ、彼は周囲を見回した。夢であれば、少しでも長く愉しむに如くはない。
だが、時間が経つにつれて現実的感覚が身体に戻ってくると、この状況を愉しむどころではなくなってきた。いったい俺の身に何が起こっているのか。
そのとき、彼の鼻腔を、覚えのある香りが刺激した。
そして彼は、彼が眠りにつく前に起きたことを思い出した。
その日の彼はパチスロで大勝し、気の大きくなったまま街をふらついていた。
いつもであれば目もくれず通り過ぎる、インド雑貨の路上販売の前で何の気もなしに足を止めると、一本の香が目についた。
無意識に手に取ると、
「その香はねお兄さん、選ばれた人が焚くと、自分の中にもう一つの人格が生まれるんです」
やたらと流ちょうな日本語で、インド人の店員が話しかけてきた。
「たとえばお兄さんが焼きそばを作ろうとして、材料一通り買ってきてね、さあいざ作ろうかというときに、オイスターソースを切らしていることに気が付く。買いにいかなきゃならないけど、また出かける気力がどうしても起こらない。そんなときに便利です。もう一つの人格に買いにいかせればいいんでね」
かるいトリップ感覚でも味わえれば儲けものであると、それぐらいの気持ちで、彼は五〇円のその香を二本、香皿と共に購入した。
部屋に帰ってその香に火をつけ、先端から昇る煙を吸い込んだのが、彼の最後の記憶であった。
彼の内に潜在していたもう一つの人格、それは本来の彼とはおよそかけ離れた野心、行動力、そしてカリスマ性の持ち主であった。今や彼は政財界と黒社会を一手に牛耳る、この国の実質的な支配者となっていたのである。
彼はそのことを全く覚えていないが、何となく状況を飲み込みつつあった。
今彼の鼻に届いている香りが、最後の記憶にあるものと同じであった。たまたまこの部屋で焚かれたその香が、久しく眠っていた本来の彼の意識を揺さぶり起こしたものと見える。
彼は眠っている間に途方もない富と地位を得た。だが、確実に大きなものを失ってもいた。
自らの手の甲に視線を落とした瞬間、彼の表情に、微かな苦悶が現れた、その微妙な変化に、周囲の女の誰もが気がつかなかった。
よく手入れはされているものの、その肌には張りが失われ、深く荒い節が目立った。まだ二十四才であるはずの彼の手に、覆いようもない老いが見て取れた。鏡を覗けば、さらに過酷な現実がそこにあるだろう。
二〇年、否、三〇年以上、彼は眠っていたらしい。
彼は再びゆっくり目を閉じると、深く長い懊悩の果て、やがて、ふっきるように一言呟いた。
「トータル、プラス!」